| ヒマラヤで技術協力がはじまる | |
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> シーカ谷・チトレ村 |
<目次>
映画・第1部「先発隊がシーカ谷に到着する」 映画・第2部「工事がはじまる」 生態系の保全をめざして 2004年8月1日発行
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はじめに映画「人類はひとつ -国際協力へのみち-」と「私たちの開発 -ヒマラヤプロジェクトの実践-」(注1)は、ヒマラヤ保全協会の前身であるヒマラヤ技術協力会が、ネパール山村において技術協力をはじめた1974〜1975年に撮影されたものである。この技術協力は、国際協力のボランティア活動あるいはNGO活動としては世界最初期のものであり、これらの映画は、当時の活動の様子とともに、30年前のネパール山村の状況をしるうえでも非常に貴重な映像資料となっている。 以下にこれらの概要を紹介し、最後に考察をくわえる。 (注1)企画:日本経済教育センター、制作:日経映画社 映画・第1部「先発隊がシーカ谷に到着する」映画の第1部では、ヒマラヤ技術協力会が発足したときから、プロジェクトチーム本隊がネパール西部の都市ポカラを出発するまでの様子が撮影されている。 (A)ネパールへ1974年12月16日、川喜田二郎さんを団長とする、ヒマラヤ技術協力会のプロジェクトチームはネパールへむけて羽田空港を出発する。チームのメンバーはすべてボランティアであり、学生もいれば社会人もいる。また、必要な資材や経費は民間団体からの寄付による。純粋な友情と自発的なボランティア精神こそ技術協力にかかせないというのが川喜田さんの信念である。 バンコクを経由してネパールの首都カトマンズに到着する。ほとんどが山岳地帯であるネパールにあって、ここだけはずばぬけてひらけている。全ネパールの人口密度が1平方kmあたり77人 たらずであるのに対し、カトマンズは938人であり、いちじるしい人口集中がおこっている。ネパールは25年前に王政復古し開国した。ながいあいだ鎖国していたため、中世の古風な町並みが今でものこっている。 その後、カトマンドゥから西へ110kmのところにあるポカラへ移動する。マチャプチャレを中心にしたヒマラヤの峰々が堂々とそびえている。とても風光明媚なところである。 (B)先発隊がポカラを出発1975年1月2日、吉田・千野両隊員は先発隊としてポカラを出発し、シーカ谷をめざす。あるいて4日間の道のりである。ハゲタカがとんでいる。街道には小さな茶屋があり、ここで食事をしたり、宿泊する。 千野さんは、静岡県富士市にすむ配電工事の技術者である。1年前にネパールを旅行したことがきっかけになり、今度のプロジェクトに自発的に参加をもうしでた。千野さんの技術は、シーカ谷での軽架線工事のためになくてはならないものである。 山道をあるいてのぼっていく。冬季のネパールは晴天がつづく。ロバの隊列もあるいている。 道中最大の難所ゴラパニ峠にさしかかる。雪がいくらかつもっている。峠をこえると、シーカ谷(海抜約2000m)がみえてくる。ここに半年間滞在してプロジェクトをすすめることになる。 (C)先発隊がシーカ谷に到着する山腹には段々畑がどこまでもつづいており、村人は牛をつかって畑をたがやし、そして種をまいている。人間と牛の労力だけがたよりである。ネパールの山間地にはもちろん電気はきていない。村人は昔ながらの生活をしている。農作業の合間には、裏山へ毎日いき堆肥と家畜のエサとなる草をかりこむ。燃料となる薪の運搬もしなければならない。ここに、日本のミカン畑などでつかっている軽架線を導入したらどんなに役立つだろうか。 また、女性や子供は遠くはなれた小川まで、朝に夕に水くみにいかなければならない。そこで5年前に、東京工業大学山岳部の4人の学生が、塩化ビニールパイプによる水道をシーカ村の小学校のすぐそばに実験的につくってみた。今でも、水道からは水がたえずながれでて、ほとばしる水音がたえない。病人の数も目にみえてへったという。村人は労働から解放されただけでなく、衛生状態もよくなった。 吉田隊員が説明会をひらく。みんなで協力してプロジェクトをすすめることを約束し、ポカラから資材運搬のために、300人にちかい村人が4ヵ村から動員されることになる。軽架線は、5年前の実験の時は装置のレベルが高すぎ、故障したときに現地住民によって修理ができなかった。今回はそれを考慮して、適正な軽架線を設置することにした。静岡で事前の実験もおこなった。 (D)プロジェクトチーム本隊が出発するさて、ポカラには、インド・カルカッタから資材が到着した。インドからネパールにいれるまで一ヶ月もかかった。村人・食料もあつまった。インドから資材をはこんできた伊藤隊員は陣頭にたっている。60歳をすぎた酒井隊員は会社経営者である。もうひとりの酒井隊員は医者である。小山隊員は東京工業大学の大学院生、小林隊員は東京芸術大学の学生である。ネパール政府の監督官もやってきた。 現地からやってきた村人が参加して、荷物が梱包される。 いよいよ本隊が出発する。村人が川喜田さんのため馬を用意してくれた。隊列が山のなかをすすんでいき、銀色にかがやくながい軽架線がはこばれていく。 川喜田さんは、はじめは学術調査できていたが、何回もきているうちに情がうつって、村人の生活を何とかよくしたいとおもい、10年前に計画がもちあがったという。軽架線と水道の計画案は、何が必要か村人と炉端でかたりあった中からでてきた。川喜田さんが技術協力を村人と約束してから10年、今度はまさしく本番である。 映画・第2部「工事がはじまる」映画の第2部「私たちの開発 -ヒマラヤプロジェクトの実践-」(注2)では、シーカ谷での軽架線と水道の工事の様子が記録され、同時に川喜田二郎先生がこれらの技術協力についてコメントをのべている。家屋が現在の4分の1程度しかない30年前のシーカ谷の状況もみられ、非常に貴重な映像となっている。 (注2)映画の中では題名としてつぎが掲載されている。 (E)軽架線を張る1975年2月3日、プロジェクトチーム本隊はポカラを出発する。軽架線は、1人あたり約30kgを輪にしてたばね、数珠つなぎにして はこんでいく。 あるいて4日、8000mの巨峰アンナプルナの山麓にあるシーカ谷に到着する。村は山の中腹にあり段々畑と放牧地を上下につくっている。かなり遠くの斜面には緑の森がみえるが、集落のまわりには森はのこっていない。 さっそく、軽架線をはる工事をはじめる。村人総出で工事をすすめる。谷をくだり、むかいの斜面に軽架線の端をもっていく。地面をほりおこしてステーションをつくる。何トンという重量がかかるので丈夫なものをつくらなければならない。村人たちは、地元にあるスレート石をつみあげる技術をもっているので、それをそのまま活用する。セメントはつかわない。こうすれば村人が参画できる。傍観者ではなく、自分たちでやったという気持ちになれる。 ステーションが完成し、軽架線をつよくひっぱる。そして無事張りおわる。軽架線のつかい方について村人全員をあつめ隊員が説明する。事故をおこさないために安全教育をする。 1975年4月、真っ赤なシャクナゲの花がさきみだれている。いよいよ軽架線の開通式だ。川喜田さんがテープカット、すぐに、薪が草が、軽架線にぶらさがって谷むこうの斜面から いきおいよくすべりおち、すぐにこちらのステーションにとどく。関係者全員の拍手の音がひびきわたる。 ところで隊員たちは、5件の家をかりて宿舎としている。工事をすすめながらたえずデータをとる。気象観測などもおこなっている。頻繁にあつまってはミーティングをひらき、データや発言はラベルに記入され、「KJ法図解」にまとめられる。つぎにどうそなえるかかんがえ、日程表をつくる。ここでは協力活動と研究とはきりはなされていない。研究にも没頭すると自然に愛情がわいてくる。一方、酒井ドクターは診療所で診察もおこなう。隊員それぞれに持ち味をいかしている。 (F)開発しながら保全する川喜田さんはかたる。「現地人は生活苦にあえいでいるんです。その原因は人口がはげしくふえたからです。人口がすくなかった昔は、人間と環境とのあいだにつりあいがとれていたんですが、今では完全にくずれてしまいました。今までのやり方でやっていると人間のみならず自然も破壊されてしまいます。ここでみられる地滑りは、自然とのつりあいをうしなった結果です。」 「軽架線を利用して、きめられたエリアで計画的に薪や草をとるようにすれば、たくさんとれる上に森林をあらさなくてすみます。自然は保護されながら生産力もあがり、作物の育成やミルクの増産にもつながります。ここでは開発しながら保全をすることがおこなわれることになります。」 「今回つかった軽架線は軽いうえに、長距離でも張ることができ、ながもちします。これは日本のある会社で新製品として開発されたもので、ヒマラヤの自然にぴたりとあいました。技術協力では、その土地の個性にあう技術を使用し、現地の自然までが、われわれのいとなみに参画しなければなりません。」 パクタル村にいってみると、英国の協力組織の人がきている。彼らは家畜・農業改良をこのあたりでおこなっているという。国境をこえて協力しあうことが人類的な課題になってきた。 (G)水道工事をおこなう今度は、水道工事に関するミーティングをひらく。吉田隊員が説明し、村人の意見をきく。模造紙に図面をえがいていく。これがいちばんいいというやり方、納得できる道を村人自身が発見したとき、やる気がもえあがる。 つづいて工事予定地の測量がはじまる。水道の位置が確定すると、塩化ビニールパイプ・パイプ・スコップ・ワイヤーなど工事に必要なものを村人がはこんでいく。パイプを谷渡しするためにはワイヤーを利用する。国際技術協力では、最新の技術が案外役にたつ。 水道末端のタンクもつくる。スレートをつみあげセメントでかためる。蛇口もつける。それをひねると水がいきおいよくながれだす。 そして水道の開通式だ。伊藤隊員と村の代表によりテープがきられる。村はちょっとしたお祭りさわぎとなる。 川喜田さんはかたる。「そもそもパイプをつかう計画になったのは、水をながす水路がこのあたりではほれないためです。水路をほると地質の関係ですぐに地滑りがおこってしまいます。」 「水道による波及効果はいろいろありました。あまった水をまわしてナシの果樹園もつくりました。水道は、シーカ村での成功をうけて、つぎにネパール政府がとりあげ、今では、国連のユニセフが大々的にとりあげてとりくんでいます。」 工事が一段落し、川喜田さんが本隊より一足先に帰国することになる。背後には、白銀のダウラギリ山群が天空にそびえている。 生態系の保全をめざしてパイオニアワークとして技術協力を開始するさて、以上みてきたように、1974〜1975年、ヒマラヤ技術協力会は、生態系を保全し村人の生活を向上させるため に、シーカ谷において軽架線と水道建設という技術協力をはじめた。 ここにいたるまでの経緯をまとめるとつぎのようになる。 1953年、川喜田二郎は、マナスル登山隊の一員としてネパール・ヒマラヤへはじめて入る。1958年にはトルボ地方の学術調査をおこなう。 川喜田の底流にながれる精神はパイオニアワークをおこなうということであった。登山や学術探検におけるパイオニアワークの時代はおわったので、つぎは技術協力をやろうと決心した。そして1963〜1964年、シーカ谷において、学術調査をすすめながら技術協力をかんがえ、シーカの村人とその約束をする。そして1974年に、ヒマラヤ技術協力会を設立し本格的な技術協力にのりだすことになる。 このように1953年からの21年間には、パイオニアワークとしての「登山→学術探検→技術協力」という大きな流れが存在する。 なお、1958年のトルボ地方への学術調査隊に同行した西岡京治氏は、1964年、ブータンに入り技術協力を開始する。 生態系を重視した問題解決型の実践川喜田は、シーカ谷への協力にあたり、技術協力をおこないながら調査研究をするという「アクション・リサーチ」という方法を採用した。また、体系的なアプローチではなく「急所に挑む方法」(キー・プロブレム・アプローチ)を用いた。 その一方で、シーカ谷の技術協力ではTVA(テネシー川総合開発公社)のやり方も参考にし、シーカ谷という谷をひとつのユニットとしてとらえ、1カ村だけでなくシーカ谷全体を活性化させようとした。 このように、シーカ谷では、地域の生態系を重視した問題解決型の実践がおこなわれた。 評価方法は未発達であったそして、1977年には評価チームが派遣される。「水道のパイプラインはかなりのものが故障して放置されていたので、それらについては修理をした。とりつけられた9本の軽架線については、非常にうまく活かされているものから、あまり使用されていないものまで、使い方に大きな差がでている」などの報告がある。 しかし、当時の評価チームの仕事は、評価というよりも実績確認と問題点の指摘にとどまっている。当時はまだ、技術協力の評価方法は未発達であった。 森林は再生された映像をよくみると、1974年当時は集落のまわりには森はないが、かなりはなれたところには豊かな森がのこっている。遠くの森までいくのは村人にとって重労働であったため、当然のことながら、集落の近くの森からどんどん伐採していたということがうかがえる。 集落のちかくから森林はみるみるうちに後退したので、もっと遠くの豊かな森から、森林を破壊しない程度に計画的に伐採するようにすればよいとかんがえたのは妥当なことである。 シーカ谷では、その後しばらくして、植林によるもっと積極的な森林保全(森林再生)がおこなわれるようになり、軽架線はその役割をおえ、現在(2004年)ではチトレ村・キバン村でつかわれているのみである。けっきょく、軽架線は、「軽架線→植林→森林の計画的利用」という森林保全・森林再生の流れの基礎をつくりだしたといえ、このような点で、ヒマラヤ技術協力会の最初の仕事は大きな成果を生みだしたといってよい。 人口抑制が必要である1963年当時から、シーカ谷は乱開発と環境保全のジレンマにおちいっていた。大きな地滑りが目立つようになったのも乱開発の結果であった。その乱開発の原因は人口の急増であり、人口急増の事情は現在でもかわりない。生態系を保全するためには、人口抑制を同時にすすめなければならないことはあきらかである。 水道はほぼ完備された水道に関しては、当初は、塩化ビニールパイプをつかっていたが、その後、ビニールホースを使用した水道へ変化した。現在では、非常に多数の水道が各地に設置され、水源も、かなり高いところになったため水質もよくなった。水道は、村人の生活向上に大きく寄与している。 環境保全型の観光開発が必要である1974年当時のシーカ谷にはトレッキングの旅行者はほとんど入っていなかった。したがってロッジは1件もなかった。 しかしその後、ゴレパニ〜シーカ〜ガーラ〜タトパニのルートはトレッキングルートとして開発され、様変わりした。このルート上では、旅行者がおとす現金は貴重な現金収入になり、一部の住民のライフスタイルは激変した。同時に、ロッジの燃料として薪が大量に消費されるなどあらたな環境問題がおこってきた。今後は、環境保全型の観光開発、さらに積極的にはエコツアーの開発が必要であり、そのためにはガイドの養成もしなければならない。 他方、トレッキングルートから少しでもはずれた村々には現金はおちず、ルート上の村々との格差が生じている。このような村々では現金収入を得ることが大きな課題になっており、外国へ出稼ぎに出る人は今でも非常に多い。 情報処理能力の開発が将来の大きな課題になる国際技術協力では、現地に入る外国人から村人に情報を提供することも重要である。外国人は住民に対してどのような情報を提供すればよいか。1つは、ひろい世界についての情報であり、2つ目は、周囲のほかの村の人々が何を知り、何をかんがえているかを知らせることだ。村人たちは、ほかの村の人たちが何をかんがえているのか意外にもよくわかっていないのである。当然、あらたな情報が入ってくるのであれば、それを処理し、すぐれたアウトプット(成果)をだしていくことが必要になる。 将来的には、外国人・現地人双方の「情報処理能力」の開発が重要なポイントになってくるだろう。しかしこのことは、多くに人々にはまだ認識されておらず、またそのための条件も不十分であり、将来の課題となっている。 参考文献 |
(C)ヒマラヤ保全協会